Unnamed Campを読んでいく
気持ち
ということで感想をとりあえず書いておく場所を作ってみた
INBOX的ページは好ましくないが、Atomicな何かを含むとは限らない「感想」に必ず個別のページを与えるのは認知資源の消費が激しいので、とりあえずの場所を作ることにした
必要に応じて切り出すか、直接そのページに書き込む
「知的」が「知の」ではなく「知性の」という意味合いで用いられることによって、「知的」と言いながら「知」そのものからなんとなく遠い言葉になってしまっている気がした。
「知的生産」という字面が伴うイメージについては色々と考えたわけだが、「物的」に対する「知的」という、日常的な用法の「知的」とは違う定義として使われたものが、普段の「知的」のニュアンスに邪魔されている感じがある。
「知を扱う」をもはや「知的○○」で言い表すことは困難なのかもしれない。
そう定義して言い表すのはいいが、その言葉が受け手に伝わった時点で意味合いが歪む。
私も「知的」にありたいわけではないなと思う。
しかしながら知的好奇心があるわけでもない。
「知的好奇心」の「知的」は珍しく「知の」っぽい。
「困っているから解決したい」が「知」に向かう唯一の動機。
多様性を感じるのが好きだから色々見て「へえー!」と思うけど、それが「知」として自分の中に蓄積していくわけではないので(と私は感じているので)、私の中では「知る」と「知」の間に結構な距離がある。
あと衒学的態度がかなり嫌い。上から目線大嫌い問題。 同じ感覚と言っていいかわからないが、以前は「うまいこと言いたい」という気持ちが強かった。
比喩のための比喩とか。
どやああああああ!!!という気持ちが強かったなと思う。
もちろんその当時そう自覚できていたわけではなく、本人としては「真っ当で鋭い洞察」のつもりなのだが、まあ「つもり」でしかないんですよね。
昔の表現を見返すと痛々しくて辛い。
客観的に見てそれが痛々しい表現であるかはわからないが、その表現をした背景に自分の痛々しさがあることを自分でわかっているので、それを感じて頭を抱える。
今は以前よりもむしろメタファー思考で比喩を多用して話をしている。
しかし、別にうまいこと言いたくて言っているのではなく、自分の頭の中がそうなっているのでただそのまま出しただけ。
よって痛々しさはない。
多分10年経って見返したとしても、今の自分の表現に対して苦しみ悶えることはないんじゃなかろうか。そのときになってみないとわからないが。
それが「汲み上げた水道の蛇口をひねると、そのまま突飛さが出てくる」ということだろうか?
メタファー多用に限らず、アイデア的なものを出そうとして出すまでもなくただ出てくる感じがある。
「言ってやろう」という野心的なものに引っ張ってもらう必要がない。
個性を強調しようとしなくても、人を刺そうとしなくても、普通にしていればそれなりの面白さがあるんじゃないかと信じられるようになった。
「のらてつ」ではない人格での経験が支えになってはいる。
ゆえに、別にフォロワー1桁で一切無名でも普通に喋ることができるという感じ。
界隈の有名人の皆様を相手にしようとも、別に自分を売り込みたいとも思わない。
自信過剰になりたくはないが萎縮してビクビクしていたくもない、ただ自然にふつうに生きていたい。
自分を「盛る」みたいなことに疲れたし飽きたし面倒くさくなった。
現代社会を生きるにあたっては本当にセルフプロデュース無しでは駄目なのだが。多分。
実在するか?
聖書・経典……?
百科事典……うーん、違うか。
時祷書とかは割とその当時の人からすればそんな感じだったかも……?
1冊でとすれば実在はしない気がする。
セットで考えたときに何が必要か。
満たすべき条件→「精神的健康を維持するために必要な情報をすべて含む」
そもそも「精神的健康」というものがこれと定まらない。
文化・文明の影響を受け過ぎる。
一方人間の肉体の健康に必要なものはそう大きく変わらない。
ので、「完全食」は安定している。
よって「万人にとって精神的健康を維持するために必要な情報をすべて含む読書体験」は考えにくいかもしれない。
ただ、どんなジャンルの情報が必要か、ということは考え得る。
直接的に「精神的健康」に関わるジャンル
哲学
教育
医学
家政学
しかし「精神的健康」を害するものがだいたい人間関係であることを考えると、文化的な面で高い水準を保つことが必要になってくる気がする。(悪感情を回避するためには一目置かれる人間でいる必要があるというか)
つまり教養全般
あと「精神的健康」が害された状態から回復するために必要な栄養素は個々人で違いすぎるので、その点では「完全読」はあり得ないかもしれない。
哲学・医学だけで解決するものではなさそう。
趣味嗜好の話になってくる。
肉体の多様性は限られた範囲に収まっているが、精神の多様性は相当に広い範囲に亘っている。
そもそもの話として、食事をせずに生きられる人間はいないが、本を読まずに生きられる人間はいる。
これは小説でもよく見られますよね。(それはそう)
耳慣れない言葉+具体的な数字とか。
「間」と「場」は確かに違う気がするが、具体的にどう違うかは考えたことがない。
手元の辞書では
「間」=「部屋」
「場」=「居所」「ある事が行われている・起こっている所」
「土間」は空間として確保されているのであって、そこが必ず何かの定位置というわけではなく(というかむしろ何も定位置にならないようにしているイメージ)、何かが行われたり起こったりするとは限らない(何かのための場ではない)。
言葉の印象の問題として、「勉強」や「学び」と「習得」の間に奇妙な距離を感じる。
「習得」だったら一生何かしらに対して発生し続けるのが当たり前な気がするのに(そうでない人が「怠惰」とされる)、「勉強」はする方が少数派感が強い。
身体的に体得することは普通のこととして続いていくが、身体性のない知識・理屈を獲得することが妙に縁遠く認識されている。
現代は「早食いの時代」という感じがする。
大量にあれもこれも食ってるけど結局よく味わかんないまま飲んでる。
噛まない。
味蕾が足りない。
食い過ぎ。